他者や物に対して、批判したくなるときの心理

批判がしたくなること、ありますね。

このデザインが気に食わない。

あの人のこの発言が気に食わない。

私も批判がしたくなる機会は、たくさんあります、あります。(だって人間だもの)

だけどもそんなときの自分の心理を観察すると、必ずそこへ潜んでいるのが「なぜわかってくれないんだ〜‼︎」という気持ちです。

また他者が批判する場面に遭遇しても、怒りを持って批判している人には同じ状態が見受けられます。

ですから他者への批判の気持ちが湧くときには「自分はなにをわかってもらいたいのか?」ということに意識を集中させることにしています。

本当にわかってもらわなければ困ること?それともその場限りのプライドの問題?

批判をしたくなるときには、必ず「もっといい」と思われるアイデアを持っています。

「なぜこうしないのだ?」「なぜこのような考え方ができない?」などなど。

それは「自分ならこうする(できる)」という考えがあるからです。

けれどもそこで同時に考えた方がいいと思われるのは「これって本当にわかってもらわなければ困る?」という部分です。

自分が苦労をして知り得た情報、手段、方法は貴重な物だと思います。

けれどもそれは自分の貴重な情報であって、時代や背景が違えば受け取る人の反応は違うものです。

それらの違いをふるいに掛けてまで、わかってもらいたいほどの事柄なの?ということになります。

つまり「自分が正しい」という部分に固着するプライドが「わかってくれない」という考えにつながっていないかということです。

もしプライドの問題なら、必要のない批判です。

むしろわかってもらえないくらいで、くじかれてしまう程度のプライドの低さだと感じます。

方法は本当にひとつなのでしょうか?

体も心も健康にする方法は、ひとつではないと思っています。

またどれを選択するのも自分の責任下に於いてなら、誰からも批判される筋合いはないと思います。

ただ自分の選択を他者へまでわからせようとすると、言葉に強制力がこもります。

強制力が漂えば情報の正しい、正しくないに関わらず相手から反発が生まれやすい。

私がこだわるのは、その部分だけです。

相手から反発を受けてまで、わかってもらわなければ自分が困ることなのか?

するとほぼ十中八九が「わかってくれなくてもいい」ことに変わります。

そうして批判は引っ込みます。

反発を受けたくないという意味ではありません

反発を受けたくなくて、このような考え方に到達するわけではありません。

自分が苦労をして得た情報や経験を、誰かへ強制してまで押し売りすることがもったいないのです。

しかもそこで情報を強制(押し売り)して反発を買えば、戦うことにパワーを使って自分を消耗させる可能性があります。

すると本当にその情報や経験を共有したい相手が現れたときに、消耗していては行き渡らなくなってしまうかもしれません。

また情報や経験を苦労してまで得たかったのは私自身だということも、批判する気持ちのときは抜け落ちています。

自分が好んで得た情報を、知りたくもない人へ届ける必要があるのでしょうか?

批判する気持ちが生まれたときは、自分へベクトルを向けるいいチャンスなのです

批判の気持ちが生まれたときのベクトルは、当然自分へは向けられていません。

そんなときほど自分へ、ベクトルを戻すいいチャンスだと考えます。

自分へベクトルが向いたときに「自分を消耗させてまで、戦うほどの価値のあることか?」という部分にたどり着きます。

そうして価値があることなら負けない覚悟で批判をしますし、そうでないのなら潔く負けて自分のプライドを傷つけない。

負けて勝つこともありますし、本当に戦って勝つこともあります。

また批判を精査すると怒りの矛先を間違うことが少ないので、戦わなくていい相手と戦わなくなる。

おまけに問題の解決がスピーディーというのは、楽に生きる上で大切な作業かと思われます。


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