サラリーマンの父、専業主婦の母。
私は1歳上の兄と3歳下の妹を持つ真ん中の子。
勉強がよくできて親の聞き分けのよい兄。
お人形さんのように両親の愛情を受けて育つ妹。
そんな家庭に生まれた。
じゃあ私は?
残念ながら、母から「大嫌い!」と言われて育った。
いちばん古い記憶で幼稚園児のころ「大嫌い!」と言われて、床に泣き崩れた記憶がある。
とても美人で、頭が良く、子どもたちの着る洋服やバッグは全部手作り。
なんでもそつなくできる母だ。
幼稚園児のころ
「セリを育てるのは困難だ。お寺に預けたい」
と母が自分の姉夫婦に相談をしているのを、同じ部屋にいた私は聞いていないふりをして聞いていた。
心配をしてくれた親戚は
「セリ、おじさんと一緒に住む?」
と言ってくれた。
この伯父は、亡くなるまで私をとても可愛がってくれた。
自分にも同年代の娘が3人もいるのに、私一人をよく外へ連れ出し、アイスクリームなどを食べさせてくれていた。
「俺はセリが可愛くてしかたがないんだ」
会うたびにそう言ってくれていた。
そんな優しい伯父に私は泣きたい気持ちを押し隠し、冗談めかして
「おじさんはハゲだからダメだよ」
と笑いながら答えた。
「そうかー、おじさんじゃだめか!」
瞬間その場はなごみ、笑いに包まれたが、母は恐ろしい般若のような顔で私をにらみつけていた。
「邪魔しやがって」
そう言わんばかりの憎々しい顔だった。
デパートへ行くと競歩のように全速力で歩き出し、私を巻いて逃げる母。
母を見失わないよう、必死で追いすがる幼稚園児の私。
突然こんなことが起こるので、きっかけなどわからない。
もしかすると母の言うことを聞かなかったときかもしれない。
店内のすれ違う人たちは、私たちのチェイスを目を丸くして見ていた。
それほど異様な光景だったのだろう。
そんなことは一度や二度ではない。
一度とうとう見失い、泣いていたところで店員さんから保護された。
場内アナウンスで母が呼び出される。
「どこ行っていたの?急にいなくなって」
さっきまで逃げていた母の形相とはまったく違う顔だ。
包み込むような笑顔で、迎えにきた。
店員さんも
「よかったねー。お母さん迎えにきてくれたよ」
そう言って、母へ私を引き渡す。
私は泣き続けていた。
母に会えた安堵感からではなく怒りだった。
悔し泣きしていることは、誰も知らない。
「逃げたじゃない!どうして私を捨てたいの?」
こうして優しい母と、突如豹変する母に翻弄されていた。
なぜそんなことをするのかは当時の私にわかるはずもない。
衝動的に捨てたくなるのだろうということだけは、伝わった。
こうして事あるごとに、小さなころから体の芯まで「嫌い」を染みつけらた。
私は「嫌われている」という思い込みを持ったまま大人になった。
「嫌われている」というより、むしろ「愛される価値のない者」と言った方が正確かもしれない。
大きくなるにつれ、母にも幼少期からいろんな事情があったことを知ることとなる。
その事情を理解したつもりになり、自分の受けた傷を棚上げにしていた。
次第に「母が幸せになってくれれば、私のことも愛してくれるはず」
母の喜ぶことは、家族のなかで誰より私が詳しくなった。
そうしてこの家族に自分を適応させてきた……つもりでいた。
でもそんなことは不可能だ。
傷は傷のまま、きちんと癒さなければどれだけ知識を増やそうが、いくつになっても同じところでつまずく。
それが私のサバイバル方法だったことを病気になってから知る。
やがて私のこの母への誤った思いは、他の人への接し方ともなった。
私はバツイチだけど失敗したのは、全部ではないにしてもこの考え方が深く関係していた。
そんなことがわかりだしたのも、ここ何年か。
この根付いてしまった考え方は、完璧に修正することなどできないかもしれない。
でも、少しずつ気付いて変えてきたことで自分が楽になってきた。
今の夫との関係性も、少しずつ変わってきている。
そうしてこれからも、もっと、もっと楽になろう。
自分を喜ばせることに貪欲になろう。
これは決してわがままなんかではない。
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