家族の中には、生まれながらの役割というものがある
自分のやったことを誰かに喜んでもらえたときや、高く評価されたときにグンと自分の価値が上がるような気がしますよね?
私は3人兄妹の真ん中に生まれましたが、それぞれに役割分担のようなものがありました。
- 1番目の兄は真面目で成績優秀で、優しい子担当でした。
- 2番目の私はひょうきんで、俊敏な動きを担当。
- 3番目の妹はお人形さん担当。
家族の中でも仕事で不在がちな父に代わり、父親的な役割を両親から求められていたからだと思います。
母はピエロの人形やデザインが入った商品を見ると、私を想像し買ってきていました。
それは不仲な両親ゆえ不安定な精神性を持つ母へ「笑って」と願っていたからです。
見た目も可愛かったし、とにかくおとなしい子だったので(上の私がうるさかったからかも?!)母からいつもお人形さんのように、連れ歩かれていました。
ざっとではありますがこのように自然と役割のようなものが担当させやすい者へ求められてしまうのが、家族なのではないでしょうか?
大人になっても家庭内での役割を、社会で果たそうとしがちです
幼いころから家庭の中で構築された役割は、そのまま「自分の存在価値」だと信じてしまいがちです。
しかしながら、そうはいきません。
- 入社したてでいちばん下っ端のポジションの兄が、もし父親的な役割を遂行しようとすれば、偉そうでウザいだけの人です。
- じっとしていなければならない場面で、私のひょうきんさや俊敏な動きはうるさく邪魔になります。
- 職場でお人形さんのように誰かに動かしてもらうのをあてにすれば、傲慢で依存的な姿に他者には見えてしまうでしょう。
- 役に立たない前提で困っている人にお父さん役を演じてみたら、とても勇気づけることになった
- 役に立たないけど落ち込んでいる人へ俊敏な動きで会いに行き、ひょうきんさで笑わせることになった
- 役に立たないけどお人形さんでいたら、なんだかその場が和んで喜ばれた
どれも家庭の中でなくてはならない役割を果たしてきて、なんらかの成功体験を得た自分の武器ではあります。
武器ですからなにかが起これば、使用したくなります。
けれども適材適所で発揮していなければ、武器が凶器に変わってしまうこともでてきます。
役割がないのを恐れるのは、自分の生存価値まで脅かされるから
なぜ武器が凶器に代わっても使おうとするかといえば、人は誰かのお役に立ちたいのです。
ではなぜ役に立つと嬉しいのか?といえば「いいことをした自分の評価を上げるため」に尽きてしまいます。
他者の役に立つということと、自分の評価を上げるための2つの相反する対象者がでてきます。
ここを間違えて「相手のため」だと考えると武器が凶器へ代わってしまい、周りから評価を落とされてしまうこともあるのです。
周りから評価を落とされても「自分がやりたくてやっただけ」と言い切れれば、自己評価が落ちることはありません。
しかしながら自己評価を上げるためだと、他者からの評価が食い違ったときに自分を無能者扱いして、逆に自己評価が落ちてしまいます。
役に立とうなどと考えないほうがいいのです
そもそも「自分は役に立たない」ので自分に与えられたこと、やりたいことを淡々としていればいいと考えると楽になります。
役に立つという前提を役に立たないに変えれば、誰も無理はしませんし自分の得意分野を発揮します。
ただ役割に縛られず対象を「自分」そうして目的を「やりたいこと、得意を発揮した」に変えただけで周囲にこういった変化も考えられるのです。
そうすれば恩着せがましさを相手に与えてしまったり、自分への被害者意識もなく自己評価が下がることもありません。
なにもできない赤ちゃんも動物でも、いてくれるだけで嬉しい
そもそも役に立つというミッションは、生育歴(育った環境)で育まれたものにすぎないのです。
それはその人のサバイバル方法であり、武器です。
けれども赤ちゃんや動物はなんの役にも立たないどころか、手を取る存在なのに人の心を潤してくれます。
いるだけでいいのは、なんの役割も与えられていなければ「役に立とう」と意識もしていないからです。
極端なものいいになりますが、本来は武器など備えていなくても愛される存在なのです。
武器は自分を守るために使っても、ときとして凶器になります。
凶器に代わるのは「誰かの役に立とう」としたときです。
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