「できること」=「やりたいこと」ではない
それぞれの性別、立場で人にはできることが異なります。
得意なこと、好きなこと、その人にしかできないこと、挙げればキリがありません。
たとえば私は料理は好きです。
おもてなしも好きです。
けれども他者から「あなたはおもてなしが好きなのだから」と勝手に、もてなすことを私の役割とされたなら怒ります。
誰にでも、もてなしたいわけではありません。
自分がもてなす喜びを感じる相手にしか、もてなしたくありません。
「喜んでもらえるといいな」というワクワクする気持ちと「もてなしてもらって嬉しい」という相手の気持ちがなければ、成立しないのです。
役割で割り当てられて義務感でイヤイヤもてなしたとなると、相手も「好きでやったんでしょう?」と私のイヤイヤを汲み取り、まるでさせてやったかのように恩を売り込んできます。
また感謝をしてもらおうという下心を抱いて暑苦しいほどの豪華料理や、テーブルセッティングをしても喜んではもらえません。
シンプルでもささやかでも「一緒に楽しもう!」という気持ちがあれば喜ばれるのです。
もてなす側、もてなされる側双方に愛情と感謝がなければ、成り立たないのです。
人は支配をされることに、とても敏感です
職場ではトップの与える役割を「自分の喜びとは感じない」となっても利害関係が絡む以上、従うかそこを去るかしかないでしょう。
会社にとって必要な人材であれば交渉も成立するでしょうが、基本は主従関係がベースでなければ仕事は回りません。
けれども家庭や、友人、コミュニティーの中で主従関係がまかり通るのなら、そこに健康的な関係性はもたらされません。
相手のやって欲しいことと自分のやりたいことに、食い違いが起これば争いが勃発します。
それは相手から、勝手に役割を任命されてしまったことから起こるのです。
なんらかの期待(下心)を持って役割を任命してくるのですから、相互理解が崩れれば力関係で役割を果たさせようとします。
「家庭のことはすべて妻に任せた」「亭主元気で留守がいい」「どれだけ尽くしてくれるかが、愛情の指針」など昭和的な発想で、相手のやりたくもないことを押し付ける人がいます。
別にお互いが納得のうえで好きにしているのなら、まったく問題はありません。
誰かの我慢や、犠牲の上では平和は訪れません
どれだけ得意でも、その人にしかできなくても、自分から役割を望まない限りいい循環は起こりません。
私の育った家庭は「お前が産んだ子なのだから、家庭はすべてお前に任せた。俺は仕事をして金を稼ぐのが自分の役割だ」という関白亭主の父と「あなたも父親なのだから、子供の面倒を見なさいよ」という母でいつも喧嘩をしていました。
どちらも互いの役割を義務として決めつけて押し付け合い、どちらも不幸でした。
子供心に「そんなに私たちを育てるのがイヤなの?」と思っていました。
けれども今となっては、そうではなかったことがわかります。
これは家庭の中で、社長の座を奪い合っていたのです。
この真逆の例が、以下のブログに描かれています。
ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインするより引用
成功する女性の夫の共通点は妻のファン「オレに尽くしてほしい」より「この人の才能を世の中に知ってほしい」
できる人が、やりたいことならすればいい
誰かが誰かの立役者に徹するには、一方的な役割分担などではうまくいきません。
ときには影となり日向となる、そうなればその都度役割も変わるはずです。
お互いの成功を祈り合い尊敬し合う間柄の根底には、愛情がなければ無理です。
口先だけで「尊敬しています、好き」とどれだけ言っても見抜かれてしまいます。
私も数年前までは「夫を引き立てる代わりに、自分も引き立てて」という気持ちが強かったです。
けれどもそんな下心がある状態で、夫婦関係はうまくいきません。
またこれは他者とも、たくさん失敗してきたことです。
どうしても自分の育った家庭がモデルとなり、親から一方的な役割を押し付けられ「親のために生きろ」とすりこまれたままでした。
だから他者へもどうしたら喜んでもらえるか?という発想で、義務感でガチガチになり「誰かのためにならない私は、存在価値がない」と信じ込んでいました。
むしろ「どうしてこんなに身を粉にしてサポートしているのに、みんな私から平気で奪っていくのだろう?」とも悩んでもいました。
それが夫を含む、他者まで支配をしていたとは気がつかないままで。
自分は被害者だと思っていましたが、加害者でもあったのです。
加害を加えていることに気がついてからは、どれだけ相手が喜ぶとわかっても「自分が喜ばないことはしない」と決めました。
そこで自分が本当に愛情を持てる人、私に本当の愛情がある人の洗い出しが始まりました。
大切にできる相手がいる人は、自分を大切にしている人
私の対応が変わったので、背を向ける人が出てくるのも仕方のないことです。
「自分の引き立て役」だと私を見込んで近づく人は、当てが外れたとなると途端に蜘蛛の子を散らすように逃げて行きます。
私を好きなのではなく「支配ができそうな私」が好きだったのです。
目的が違うのでこういった相手とは一緒にいない方が、どちらにとってもWIN-WINです。
また自分を大切にするようになると、特別なにをするわけでもない私を、大切にしてくれる人も大勢現れました。
その人たちは自分をとても大切にしているので、他者のことも大切に接します。
私のイヤがることも押し付けませんし、私も何かをしてもらおうとも思いません。
ただ必要なときには親身に相談にも乗ってくれますし、私も相手が必要とするときは一緒に考えることが自然となされます。
Give & Takeが自然な形で行われないのはどちらか、もしくは双方に愛情が存在しない奪う関係性で疲弊するばかりです。
同性、異性、立場は一切介在しない、愛情を持てる相手かどうか?なだけが試されるのです。
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