よい記憶が多い人ほど、よき人生を送れるのではないかと思う件

自分を大切にするようになると、自分を大切にしてくれる人が増えるということは本当ですね。

私の周りには、今温かな人でいっぱいです。

友人や仕事関係に限ったことではなく、飲食店や販売店の人までもがとてもよくしてくれます。

そうして私は目的の物を購入する以上の、温かな気持ちをいただいて帰ってくるのです。

寝る前に「あー、今日もいい1日だった」と感じるのはいいことがあった日ばかりではありません。

イヤなことがひとつも起こらない日も、素晴らしい1日なのです。

そんな日々がどんどん増えると、多くを求めなくなります。

笑顔の優しい人と出会えただけで、心から「いい日だった」と感じられるのです。

いい記憶を積み重ねることができると、心の筋力も強くなります

無理やり「いい1日だった」と思う必要はありません。

悪いことがあったらあったなりに、毎回自分なりの解消に努めます。

他者からの心無い一言や、荒んだ気持ちに触れて消耗したエネルギー、それらをなかったことにはしません。

ただ「疲れたね」とか「(相手の言動が)ひどいね」と自分を労わり、そういった負のエネルギーをシャットアウトします。

イヤなことが、まったくない人生は誰にもないのです。

けれどもそれを補ってくれるのが、フトした他者の温かさや笑顔の記憶の「貯金」です。

少々イヤなことがあっても、温かな記憶を思い返すことができると「私は大切にされている」と自然に切り替えることができるのです。

またいい人からだけの記憶ではなく、ダメージを与えた人からもなにか温かいものを得ています。

なぜなら悪いことばかりでは、その人ともともとの接点がなかったはずです。

けれどもダメージを受けるほどの接点が確かにあったということは、なにかしらのいいきっかけがあってのことでしょう。

心の筋力がつけば、そういったことも思い返す体力につながるのです。

悲しかった記憶ばかりを思い返してしまうのは、心の筋力を一番弱らせます

悲しかった記憶ばかりを思い返すのは、自分を大切にすることではないのではないでしょうか?

誰かの悲しい話に同情して泣いてしまうのも、自分の悲しい記憶を投影させているからです。

どんなに悲しい人の話でも、自分が体験したことのない話に悲しみは感じません。

どこかしら重なる部分があるので、悲しいのです。

他者へ同情しているように感じるでしょうが、そのベクトルは自分へ向けられている自己憐憫なのです。

もちろん自己憐憫の末に、自分を大切にする方法を編み出すことは大切なことです。

けれども自己憐憫をしただけで終わってしまっては、古傷をえぐったまま放置していることになるのと同じこと。

自分の20代、30代の前半を思い返すと、やはり古傷をずっとえぐり続けていたと思います。

そのツケが40代に入ってから、パニック障害として現れたと感じるのです。

その経験があってやっと心の筋力をつけるよう、心がるようになりました。

体も心も筋力はすぐに衰えます

今でも「あー、今日も1日いい日だった」という心の筋力トレーニングを毎日欠かしていません。

また1日の最後にそう思えるよう、意識して暮らしています。

ときにはそう思えない日があっても、翌日をいい日にすればいいとも思っています。

すると他者を責める気持ちが出てきてもどうでもよくなり、自分を一番大切なものとして考えます。

いい1日を積み重ねる私の「自分キャンペーン」は一生続くでしょう。

この一生ものの自分キャンペーンの賛同者を、無期限で募集します。笑


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