家族のお世話も、自分が楽しめていないのなら

施す側が楽しめていないのなら、施される側にも影響が出ます。

これは家族間のコミュニケーションでも、社会でも同じだと思っています。

誰かを犠牲にしてまで自分の楽しみを追求しても、最終的には誰も楽しめなくなります。

プロの職業ボランティアと素人ボランティアとの違いは、犠牲を伴わないことだと考えます。

ある日の熊本物産展

熊本物産の催事が行われていました。

食いしん坊の私は「馬刺しだー!からし蓮根だー!」とワクワクしながら見始めました。

2食入りだから「アベックラーメン」なのかー!

2食入りだから「アベックラーメン」なのかー!

すると隣の男性が、何個も手にしていたのが「アベックラーメン」。

男性はなんの迷いもなく、この商品を手にしました。

「アベックラーメンはおいしいのですか?」と聞くと「今電話で買ってくるように言われたから」と苦笑い。

おそらく広告かなにかを見た奥様から、言われたご様子です。

電話して買ってきてもらうほどおいしいのなら、私も食べてみたいと思い購入しました。

勢いで某女優さんが足繁く通うと評判のラーメン店黒亭とチャンポンも購入し、しばらく自宅で熊本を楽しめるとホクホクしていました。

復興支援になっていた

熊本がんばろう!

熊本がんばろう!

家へ帰り商品を出して目に入ったのが「熊本がんばろう!」のキャッチコピー。

昨年の震災から1年が経ち、忘れたわけではないのです。

けれども熊本の物産品と震災が、結びついていませんでした。

自然な形の援助がいいな

とはいえ私が喜びながら支払ったお金のほんの一部が、結果的に熊本の復興支援になるかもしれない。

そう思うと「力の入らない援助」という言葉が私の脳裏に浮かびます。

「熊本がんばろう!」のフレーズが、心地よく響いたのです。

あくまでも主観ですが「熊本がんばれ!」では一方的だし、他人ごとで冷たく感じます。

でも「熊本がんばろう!」だとなんだか自分も、明るくがんばる一部になれている氣がしませんか?

努力や根性そうして「がんばる」という言葉は「苦手なものに対して」という無理くり感があり、好きではありません。

けれどもこの袋麺の「がんばろう!」には爽やかな印象を受けました。

くまモンのイラストのおかげでしょうか?

それともほのぼのとした「アベックラーメン」というネーミングのおかげでしょうか?

初めてのボランティア体験

私の初めてのボランティア体験は、小学生のころ3年間を過ごした東アフリカのタンザニアでした。

イギリス人経営のインターナショナル・スクールに通っていました。

放課後「あっちでボランティアを募っているよ!」と誰かが呼びにきました。

まだ小学4、5年生でしたから、はっきりとボランティアの意味もわかってはいません。

「なんだか面白そうなことをしている」といった感じだったのです。

広い芝生の校庭を1周するごとに、1シリングの寄付ができるという説明を受けました。

当時の現地通貨の1シリングは、おそらく10円くらいだったかと思います。

コーラやスプライトなどの炭酸飲料が、1シリング50セントくらいの価格でした。

わけもわからないながら「いいこと」をしているような氣がして「10シリング分校庭を周ろう!」と決めました。

「走ってはダメ!」

元氣な子供のやることです。

「いいこと」をしようと張り切ってもいます。

最初こそ歩いて周っていましたが、楽しくなって早足を始めます。

「こんな簡単なことでお金を稼げるのー?」と自分に報酬がくるわけでもないのに、はしゃいでいました。

気がつくと「もっといいことをしよう!」と走り始めていました。

すると普段はとても優しい体育の教師から「歩きなさい!走ってはダメ!」と遠くから厳しく声をかけられました。

「えー、どうして?ボヤッと歩いていてもつまらない」と思い、先生の元へ駆け寄ります。

すると先生は今度は優しく「走らないと退屈なら、今すぐにやめなさい」と私をなだめました。

先生はゆっくり「この炎天下で校庭を走ると、君が危険な目にあうから」と説明してくれました。

先生の優しくて真剣な物言いが「ボランティアは遊びではない」と体で教えてくれた氣がします。

日中の気温が40度を超す赤道直下の国です。

「いいこと」が命に関わります。

楽しみながら動いて初めて、相手も受け取ることができる

その後歩いて10周を終えた私に先生は、優しく声をかけてくれました。

「ボランティアはね君が楽しみながら動いて初めて、相手も受け取れるんだよ」と。

私は自分の行う「いいこと」に徳を覚えていましたが、それはボランティアではないのだと素直に思えました。

「いいこと」に固執することは、自分の命に関わる。

それでは援助は届かなくなる。

だけれども自分も嬉しく動き、どこかの誰かが喜んでくれることで無理が出ない。

だから楽しめないのなら止めること。

もしくは楽しめる別の方法を探すこと。

小学生の私が体を犠牲にしそうになってまで「いいこと」をする自分へ、固執するようなことをしていないでしょうか。

もし自分が現在楽しめていないのなら「止める方法」や「楽しめる別の方法」を模索してみませんか?


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